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サウザンド・アイランズ

 

海賊ビル・ジョンストン

「愛国海軍提督」と称されるウィリアム(ビル)ジョンストンは178221日にカナダ・トロワ・リヴィエールに生まれました。

ジョンストンは1838年のカナダの反乱時の略奪によってその名を知られています。1838529日の夜、イギリスの蒸気船サー・ロバート・ピールがジョンストン率いる22名の自称愛国者に襲撃されました。乗客を陸に降ろし、積荷を奪った後、ジョンストンは船を沖に出し、火を放ちました。彼ら一味の確保に多大な懸賞金がかけられました。

18413月、ジョンストンは恩赦の陳情のためワシントンに赴きました。当時任期の終わりに近づいていたマーティン・ヴァン・ビューレン首相はこの時ジョンストンに「恩赦どころか銃殺か絞首刑だ」と伝えました。同様の陳述書が10日後、ヴァン・ビューレンの退任後に提出され、ハリソン首相はジョンストンに恩赦を与えました。

1853412日、ジョンストンはロック・アイランド灯台の灯台守に任ぜられました。皮肉なことに、ジョンストンの逮捕に$1000の懸賞金をかけた政府が、ジョンストンに、まさにその事件が発生した現場での灯台守としての給与$350を数年間支払い続けたのです。

 

アビー・ホフマン(別名ベリー・フリード)

19361130日に生まれたアビー・ホフマンはアメリカの政治活動家として、青年国際党(イッピー)の創立者の一人として知られています。ホフマンは1968年の民主党全国委員会での抗議運動が警察との暴力的な対立を招いたため、謀略と暴動の扇動で検挙され法廷で裁かれ、シカゴ・セブンの一人として知られるようになりました。

ホフマンは1960年代に台頭して1970年代まで活動を続け、当時の若い世代の反抗と急進的な活動のシンボルとして君臨していました。

ホフマンは1973年にコカインを販売・流通させようとした容疑で逮捕されました。覆面捜査員のおとり捜査により逮捕されたとされています。ホフマンは保釈中に行方をくらませ、ベリー・フリードという変名で数年間ウェルスリー島に潜んでいました。この期間中彼はアメリカの最重要指名手配犯トップ10に名を連ねていました。彼は1980年に自首し、1年の実刑判決を受けました。

198094日に彼はバーバラ・ウォルターズとテレビ番組「20/20」に出演しました。198611月にホフマンはエイミー・カーターその他らと共に、マサチューセッツ大学への不法侵入の容疑で逮捕されました。これはマサチューセッツ大学キャンパスで行われたCIAの採用活動への抗議活動に端を発しています。この件では後に陪審員は無罪判決を下しています。

ホフマンは映画「74日に生まれて」にも出演しました。彼の役はキャンパス内の抗議運動の最中に、管理棟の壁際で旗を振るという、ほぼ彼自身の実像に近いものです。映画は、ホフマンが自殺した1989412日から8ヵ月後の、198912月に公開されました。彼は死の直前までCIAの潜伏活動について講演を行っており、その内容には自殺に見せかけた暗殺に関するものも含まれていました。彼が「プレイボーイ」に寄稿した「置くトーバー・サプライズ」に関する記事は、その陰謀とされる内容を初めてアメリカ市民に広く知らしめることになりました。

 

ジョージ&ルイーズ・ボルト

1851425日にプロシアに生まれたジョージ・チャールズ・ボルトは

一代にして巨万の富を築いた符号であり、社交センターと贅を楽しむ場としての都市型ホテル開発に影響を与えた人物です。

ルイーズ・ケーラー・ボルトはフィラデルフィアで、ドイツ出身の居酒屋経営者の家に生まれました。父親が高級なフィラデルフィア・クラブの執事になった時、ケーラーはボルトのアシスタントとして雇われました。ジョージはルイーズを一目見て恋に落ちました。

ジョージとルイーズが結婚した時、裕福なクラブの会員達は、フィラデルフィアでBellevueという小さなホテルのオープンを援助しました。フィラデルフィア富裕層とのコネクションはルイーズ・ボルトに社会的安定をもたらしましたが、それ以上に重要だったのは、当時裕福な男性の妻達が日常の喧騒を逃れたがっていることに気づいたことでした。ルイーズはホテルでテーブルに新鮮な切花やキャンドルなどを飾るという新しいサービスを提供しました。ボルト夫妻のBellevueはレストランに重点を置いた小ぢんまりとした高級ホテルで、その食事のおいしさからまたたく間に有名になりました。店で出していたフィラデルフィア・テラピンをビクトリア女王にこともありました。ニューヨークのAstorsVanderbiltsがホテルを訪れ、その結果ジョージ・ボルトはニューヨーク市に新しく建設される予定の最高級ホテル、William Waldorf Astorホテルの支配人として招かれました。オリジナルのWaldorfはジョージ・ボルトの詳細な指示のもと建設されました。ルイーズ・ボルトは全ての部屋を飾り、ゲストルームのドレッサーにピンクッションを置くなど、女性らしいセンスで様々な新しいアイディアを提供しました。ボルト夫妻はフィラデルフィアでの経験から、女性にアピールする部屋づくりを知っていただけでなく、料金を一般的なホテルに比べて大きく引き上げることで、それだけの金額を払えるのだと見せ付けたい顧客が列をなすということも知っていました。Waldorfの有名料理人オスカーが、ホワイトタイを着用し、料金を支払うことのできる特別な人々に存分にその腕を振るったPalm Courtの入り口に飾るベルベットロープもボルトの発案によるものです。Waldorfは大不況の波が押し寄せ始める1894年にオープンしました。ボルトは神経衰弱に悩まされましたが、彼の戦略は成功を収めました。間もなくAstorファミリーの一人がボルトの事業拡大に投資を決めてAstoria部門が1897にオープンし、世界最大のホテルとなりました。当時を知る人は、「ボルトの才覚は、最高級の特別感を広く人々に味わわせたところにある」と言います。ボルトは更にフィラデルフィアに、Bellevueの後続となるホテルBellevue-Stratfordを建設しました。

しかし、彼らの名はおそらく世間には、サウザンド・アイランズにボルト城を建設した夫妻として最も知られているでしょう。城は妻ルイーズ・ケーラー・ボルトへのプレゼントになる予定でしたが、1904年に彼女が急死したため建設が中断されました。その後何十年にもわたって汚損や破壊が繰り返された城は、大幅な修復工事が行われ、現在では夏の観光スポットとして親しまれています。

ボルトはWaldorf-Astoria時代に料理長オスカー・チルキーにサウザン・アイランド・ドレッシングをメニューに入れるよう指示し、世間に広めたとされています。

1916125日、住居として使用していたWaldorf Astoria9階で、65歳のジョージ・ボルトは愛する妻のもとへ旅立ちました。死因は心労と過労だと言われています。彼の資産は当時の金額でおよそ2500万ドルとされています。ボルト氏は有数の資産家として、また突出した有名人としてこの世を去りました。五番街はWaldorf-Astoriaから教会へと続く葬列のため通行止めになり、 にはアメリカ有数の著名人や権力者が彼の棺を担ぎました。

 

エドワード・J・ノーブル

1882年ニューヨーク・ガバヌーアに生まれたエドワード・J・ノーブルはアメリカの放送局と製菓会社を所有する実業家でした。彼は1913年にLife Saver Corporationを共同創業し、また1943年に連邦通信委員会がRCAに対してラジオ局2局のうち1局の売却命令を出した際にNBC Blue Networkを買い取り、American Broadcasting Company(アメリカABC放送)を 1943年に設立しました。

民間航空委員会の初代議長でもあった彼は、1939年から1940年にかけて、フランクリン・D・ルーズベルト政権で商務次官を務めました。

1912年にチョコレート製造業者のクラレンス・クレインがLife Saversをチョコレートより熱に強い「夏向けのキャンディ」として発明しました。ミントキャンディの形が救命浮き輪に似ていることからLife Savers(救命具)という名が付きました。商標登録の後、クレインはペパーミントキャンディの権利を$2900でエドワード・ノーブルに売却しました。ノーブルはミントの鮮度を保つため、ホイル包装を考えつきました。Pep-O MintLife Saversのフレーバー(味)第一号でした。

ノーブルはセント・ローレンス海路プロジェクトにも参画しており、1954年にはドワイト・D・アイゼンハウアー大統領の諮問委員に任命されました。彼はボルト城とサウザンド・アイランズクラブ、そしてウェルスリー島に夏の別荘を所有していました。

エドワード・ノーブルは19581228に、眠りのうちに平和に死を迎えました。

 

ジョージ・プルマン

ニューヨーク州でもっとも著名な人物の一人として知られるのがジョージ・モーティマー・プルマンです。彼はアメリカ史上に残る豪華な列車を建設し、旅行の世界に革命をもたらしました。 

183153日に生まれたプルマンは、1858年頃に寝台車を建設しました。贅を尽くした内装と高価な装飾品で飾り立てられた見事な列車でした。高級レストランの食堂車を持つものもありました。中でも最も有名なモデルがパイオニア号でした。この列車はエイブラハム・リンカーン大統領の遺体を墓地に移送する際に使用されたことで一躍有名になりました。

プルマンは自分の寝台車を一台も売りませんでした。彼は鉄道会社にレンタルし、鉄道会社は乗客を乗せるごとに使用料をプルマンに納める形を取っていました。プルマンの会社は最も多い時で2,000台の寝台列車を貸し出していました。会社の資産価値は6200万ドルにも昇りました。しかし、栄華は長く続くことはありませんでした。1893年の恐慌の波に呑まれたのです。プルマンは製造カット、賃金カット、レイオフを余儀なくされ、それが暴力的なストライキを招く結果となりました。政府軍が暴動を鎮圧する騒ぎに発展しました。この事件でプルマンの評判は失墜してしまいました。

プルマンは18971019日、心臓発作でこの世を去りました。彼に恨みを持つ元従業員によって墓が荒らされることを恐れ、彼の遺体を収める穴は通常より深く掘られ、コンクリートと鉄でしっかりと塞がれました。現在は、彼の墓にはコリント式円柱が立てられています。

 

アーヴィング・バーリン

1888年511日に生まれたアーヴィング・バーリンは

ユダヤ系アメリカ人作詞作曲家であり、アメリカ史上最も多作なソングライターの一人です。バーリンはティン・パン・アレー/ブロードウェイのソングライターとしては珍しく作詞と作曲の両方をこなすことのできるソングライターでした。彼は楽譜を読むことはほとんどできませんでしたが、数多くの無名の音楽的アシスタントや共同制作者の助力を得て3,000以上の曲を生み出しました。「ゴッド・ブレス・アメリカ」、「ホワイト・クリスマス」、「あなたには負けない(アニーよ銃を取れ)」、「ショーほど素敵な商売はない」など、その多くは世界中の音楽のみならず文化にも大きな影響を与えています。彼は映画音楽を17本とブロードウェイミュージカルを21本手がけました。

バーリンはセント・ローレンス・パークに夏の別荘を持っており、「ブルースカイ」や「オールウェイズ」などの曲は別荘で書かれたと言われています。バーリン一家が別荘にいる時は、水際から見える芝生の上に、ちょうどRCAのシンボルマークのように「マスターの声を聞く犬」の姿が見られたと言います。

バーリンは生涯に二度結婚しました。最初の妻ドロシー・ゲーツはキューバへ新婚旅行に行った時に肺炎と腸チフスを患い、1912年に結婚後5ヶ月で20歳の若さで亡くなりました。

アーヴィング・バーリンは1989922日にニューヨーク市で101歳の生涯を閉じました。

 

ケイト・スミス

ケイト・エリザベス・スミスは190751日に生まれました。1930年にコロムビア・レコード副社長テッド・コリンズに見出されました。彼は彼女のパートナー兼マネージャーとなり、1931年に彼女をラジオでデビューさせました。彼女はすぐに有名になり、伝説のパレス・シアターのロングラン記録を樹立しました。

1932年には映画「The Big Broadcast」にも出演しました。彼女は自分自身の映画「ハロー、エヴリバディ!」の主演を務め、1943年にはアーヴィング・バーリンの「This is the Army」で挿入歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌いました。

ケイトは1926年からアルバムを作り始めました。彼女の代表作といえば「When the Moon Comes Over the Mountain」でしょう。また、アーヴィング・バーリンは彼女が歌ったことで有名になった「ゴッド・ブレス・アメリカ」を自分にとって最も大切な曲としています。

彼女は1937年から1945年まで毎週、最も有名なラジオバラエティ・アワーのパーソナリティを務めていました。同時期には日中放送のラジオ番組として一番の人気を誇った「Kate Smith Speaks」も行っていました。1950年にケイトは午後のバラエティ番組でテレビ進出を果たしました。この番組は大ヒットし、NBCは水曜夜のゴールデンタイムの番組に彼女を起用しました。彼女の最後のテレビ番組は1960年のCBSの「The Kate Smith Show」でした。彼女は「エド・サリバン・ショー」や「ディーン・マーティン・ショー」、「スマザース・ブラザース・ショー」などの様々な有名テレビ番組にもゲストとして出演しました。1972年から73年にかけて、彼女はレノ地域最大のナイトクラブと契約し、一日2回のショーをこなしていました。

ケイトは「ゴッド・ブレス・アメリカ」でホッケーチームフィラデルフィア・フライヤーズの幸運マスコットとして起用され、チームはスタンレーカップ二連覇を成し遂げました(1974年と1975年)。1976年にはトーナメント・オブ・ローゼス・パレードの主役に選ばれました。

ケイトはサウザンド・アイランズのマナタワンナ島で避暑を楽しみました。彼女は1986617日にノースカロライナ州ローリーで亡くなりました。

 

メアリー・シー

メアリー・シーは1854年にガナノーク近くのハウ島で、ジョン・ワイズマンとメアリー・コックスの間に生まれました。父親はアイルランドからの移民で農業を営んでいました。最も近い本州の町がガナノークだったこともあり、メアリーは自分の故郷を「Gan(ガナノークの愛称)」だと思っていました。

メアリーはやがてアレキサンダー・シーと結婚し、2人はトレモント島でトレモント・ホテルを経営していました。このホテルでメアリー・シーは始めて宿泊客に自家製のキャンディを振舞いました。アレキサンダー・シーは1919年にキングストンで亡くなりました。 

1919年に亡くなったメアリーの夫はガナノークで埋葬されました。 

1921年にメアリーは息子チャーリーとその妻と共にロスアンゼルスに移住しました。その2年後、一号店がオープンしました。シーズ・キャンディ・ストアはその独特な外観から「皆に愛される黒と白」と呼ばれていました。カリフォルニアの人口が増えるにつれ、シーのキャンディストアも店舗数を増やして行きました。今日、西海岸におよそ200店が展開しています。

マーガレット・ムース・ピックによれば、1950年代にルシール・ボールのテレビ番組「アイ・ラブ・ルーシー」の中で、チョコレート工場の製造ラインとしてシーのキャンディ店の歴史の一部が語られているそうです。ルーシーとヴィヴィアン・ヴァンスはシーの製造ラインで一日研修を行い、仕事のコツを学んだといいます。

メアリー・シーは1939731日月曜日にガナノークで亡くなりました。死因は公表されていません。

サウザンド・アイランズの宝

 

メイプル島

1865年夏、アメリカ南部から来たなぞの人物がメイプル島に小屋を建てました。周囲の人と関わろうとしない彼を地元の人々は世捨て人と呼んでいました。ある日、アメリカ南部から6人の人物が「世捨て人」を探してガナノークからアレキサンドリア湾、フィッシャーズ・ランディング、クレイトン、メイプル島と渡ってきました。メイプル島でおそらく彼は6人に見つかったのでしょう。ある9月の夜、彼の小屋は炎に包まれました。翌日、彼の死体が発見されました。遺体は半裸で喉が切り裂かれ、胸には三角形を描くように3ヶ所に十字の傷がつけられていました。状況証拠などから、死体で見つかった人物はアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンの暗殺に関わっていたとされる一人、ジョン・ペインだと思われました。皮肉なことに、彼自身もまた大統領暗殺に関わっていたとされるグループKnights of the Blue Gauntletの手にかかって死を迎えたのです。共謀者らはジョン・ペインを見つけることには成功しましたが、彼が仲間達と山分けする約束になっていたリンカーン暗殺の報酬は出てくることはありませんでした。

 

ウェルスリー島

地元歴史家ジェイムズ・F・ロビンソンによれば、キングストンの近く、セント・ロレーレンス川にあるウェルスリー島には埋蔵された財宝に関する数多くの物語が残されているといいます。フレンチ・インディアン戦争の最中、フランス軍はポプラ湾(Hotel Westminster建設予定地)で敗れました。岸辺でフランス人達は隠していた金やその他の高価な金品を埋蔵しました。フランス帰国前に、最後まで残っていたフランス人兵士が財宝を埋めた場所の地図を書きました。この地図は1914年までは現存していたようです。現在、地図の行方は財宝自体のありか共々謎に包まれています。

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